鏡に映る分子は別物? 分子がもつ左右の謎に挑む朝日研(生物物性科学研究室)
分子の構造のなかでも、ちょうど右手と左手の関係のように、鏡に映した構造をもつ「キラリティ」という性質を大きな研究テーマとしています。キラリティのなかには、「右手」と「左手」で性質がまったく違うものがあり、特に生物の体の中では重要な意味を持っていると考えられています。物理学・化学・生物学・薬学を組み合わせた多様な方法で、キラリティの謎にアプローチするこの研究室は、研究対象が薬から結晶まで多岐にわたっているのも特徴です。
Work
分子に潜む右手と左手の謎とは?
この研究室の大きな研究テーマは「キラリティ」。 聞き慣れない言葉ですが、どういう意味なのでしょう。博士2年の荻野さんは、顔の前に両手を広げながら説明します。「キラリティとは、右手と左手の関係のようなものです。鏡に映すと同じ形態ですが、そのままでは重ならない性質のことです」。右手と左手は、手の甲と5本の指からなる点は同じですが、両方とも手のひらを上にした状態で重なり合うことはありません。このように、鏡に映したような構造をとる性質のことをキラリティといいます。
右手と左手の関係ともいえるキラリティは、分子の構造にも見られます。しかも、「右手」と「左手」では性質がまったく変わる場合があるのです。たとえば、味の素に含まれるグルタミン酸ナトリウムという分子は、一方のかたちでは食べ物の旨味として舌が感じますが、もう一方のかたちでは何の味も感じません。キラリティがあるかどうかは、ある特殊な光を使うことで調べることができます。しかし、液体ではなく結晶などの固体のキラリティを調べることは極めて難しい問題でした。朝日先生は、恩師の小林諶三先生が発明した固体キラリティを調べることができる装置(HAUP)を拡張し、世界に先駆けていろいろな分子のキラリティを研究してきました。
キラリティは、薬の効果にも大きく関わっているのだそうです。最も有名なのは、1950年代に発売された「サリドマイド」という睡眠薬。この睡眠薬を妊婦が飲むと、生まれてくる赤ちゃんの手足に異常が見つかるようになり、日本を含む世界中で問題になりました。その後、原因解明においてサリドマイドのキラリティが注目され、一方のかたちには睡眠作用が、もう一方のかたちには有害作用があることがわかったのです。当時はキラリティをもつ分子は右手と左手、両方のかたちが混ざった状態で作られていたため、このような事態を引き起こしてしまったといわれています。これをきっかけに、キラリティをもつ分子は厳密に作り分け、それぞれの性質を調べることが重要視されるようになりました。
では、片方のかたちだけを作ることで、サリドマイドを有効に利用することは可能なのでしょうか。話はそう簡単でもないようです。「サリドマイドは、体のなかで右手と左手が変わってしまうという性質があるのです。さらに、体のはたらきによってサリドマイドは別のかたちにも変化してしまいます。どのように体のなかでキラリティや分子のかたちが変わるのか、なぜサリドマイドは毒をもつのかというのは、本当はあまりわかっていません」(荻野さん)。 このような仕組みを解明するのが、朝日研究室のテーマのひとつです。
朝日研究室は物性化学班と生物班と大きく2班に分かれていて、それぞれ毎週、研究の進捗状況を報告します。朝日先生がスライドを指差しながら議論するようすは、まさに熱血タイプ。
この装置は、結晶に光を当てて分子の構造を調べるもの。研究室には4台あり、キラリティを研究するうえで欠かせない装置です。
物理・化学・生物学・薬学......あらゆる分野から、キラリティに挑む
朝日先生は早稲田大学の理工学部応用物理学科出身で、 温度によって分子の構造や性質が変わることについて研究するなかでキラリティの存在を知り、興味を持ったのだそうです。
キラリティは、生命全体に関わる性質であると朝日先生は言います。たとえば、遺伝子となるDNAや、体を作るアミノ酸という分子もキラリティをもっています。これらの分子を実験室で人工的に合成すると、両方のかたちが混在します。ところが生物の体内では、一方のかたちでしか存在していません。つまり、私たちのからだはきちんと分子を作り分けているのです! これは生物学の大きな謎のひとつで「ホモキラリティ」と呼ばれています。
ホモキラリティの謎に魅せられて、朝日先生はキラリティを大きな研究テーマとして掲げています。サリドマイドだけでなく、アミノ酸やタンパク質、さらにはアルツハイマー病に関わる分子についての研究も行っています。キラリティに関わる現象を解明するために、物理学・化学・生物学・薬学の分野を横断しながら研究するのが、朝日研究室の大きな特徴です。
朝日先生の研究に対するポリシーは3つ。 ひとつは、 個性を大事にすること。いろいろな性格や考え方をもつ人が集まることで、研究の幅が広がるためです。次に、一生懸命やること。もちろん、世界トップレベルを目指すためです。そして最後に、楽しむこと。「辛くても、楽しいと思えば乗り越えられます。そのために、楽しい環境を作るようにしています」。ときには、学生と一緒に朝日先生も研究室に泊まるとか! 辛いことも楽しいことも、いっしょに分かち合うような研究室ですね。
4年生になって初めて研究室に所属するときは、朝日先生がいくつか用意した研究テーマから、自分のやりたいことを選ぶことが多いようです。実験操作や研究そのものの進め方について先輩から学びながら、自分の研究スタイルを確立させていきます。
薬の効果から生命の謎まで、さまざまな現象をキラリティの視点から研究する朝日研究室。一見すると生物学の分野のように感じますが、朝日研究室では物理学や化学、薬学の知識も使います。 細胞を使った実験だけでなく、コンピュータを使ったシミュレーションや分析など、いろいろな方法で研究したいという人にはピッタリな研究室といえそうです!
薬品が入った瓶や分析装置が多く並ぶ実験室は、化学分野の研究室のよう。ここ以外にも、細胞を扱う部屋など、いくつかの実験室に分かれています。
実験中に取材したため、テーブルにはいろいろな器具や薬品が並べられていました。どれも普段の実験で使うものばかりです。
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※おすすめ書籍の紹介文は、朝日先生によるものです