哲学の知の蓄積と更新のなかに現代や未来を考えるヒントを探る

私は考える、ゆえに私は存在する―17世紀フランスの哲学者デカルトの言葉です。
この「考える」という行為は、いったいどのようなものなのかを、近現代の哲学は問い続けてきました。
「考えることと理性的であることは同じか」「思考と身体はどのように関係するのか」「動物は考えるのか」など、哲学者たちが立ててきた問いは多岐にわたります。
さらに「機械やAIも思考しているといえるのか」も、現代ならではの哲学的な問いです。
私自身はこれまで特に、考えることと言語との関係に関心を向けて研究してきました。
言語は、考えや情報を伝達するツールとみられがちですが、むしろ言語によって、私たちの思考や見える世界はかたちづくられているといえます。
一例を挙げてみましょう。
英語のphotograph(写真)、fantasy(幻想)、phantom(幽霊)は、どれもギリシア語のphōs(光)に関係する語彙です。
ヨーロッパの言語では、これらの言葉が同じつながりで捉えられているのに対し、日本語に翻訳すると、それぞれの言葉の関連が断ち切られてしまいます。
このようにほかの言語に置き換えることは、ときとして思考の体系そのものに根本的な変化をもたらすのです。
哲学の考え方には、文学や芸術、宗教、自然科学などの領域がさまざまに影響しています。
文学部ではコースに進級後も、それらの領域を関連づけながら幅広く学び、専門性を深められることが魅力です。
二千数百年にわたり蓄積されてきた哲学の知に触れることで、日本語、あるいは現代の言葉で考えていては出てこない発想やアイデアを得られるのではないでしょうか。
哲学を通して鍛えられる普遍的で自由な思考力は、混沌とした現代世界を生きる力にも繋がるはずです。